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わたしとウェーバーとのかかわり

雀部幸隆

 

2001年末、『図書新聞』編集長米田綱路氏によるインタヴュー。

『図書新聞』2002年4月27日(土)第2579号

「記録 雀部幸隆氏が語るウェーバーとの思想的格闘、その軌跡。現代の精神史的省察 雀部幸隆」

として掲載

 

 

  ——現代日本の政治状況はますます混迷を深めています。そして政治に対する無関心と無気力が強まり、議会制民主主義の「機能不全」が叫ばれる昨今です。いまほど政治の役割が問われているときはないはずですが、その実態は眼を覆わんばかりの惨状です。

 雀部先生は一貫して、マックス・ウェーバーの政治論・政治思想を研究してこられました。その研究史そのものが、私には戦後日本の精神史の系譜と重なり合うように思われます。また『ウェーバーとワイマール——政治思想史的考察』(ミネルヴァ書房、二〇〇一年)の「あとがき」で、現代日本の政治的混迷にふれて、それは戦後民主主義の受容の仕方そのものに起因するのではないか、自らのなかにある戦後民主派的発想を徹底的に対象化して批判的に吟味する必要がある、と書いておられました。そこで雀部先生の歩んでこられた研究史および精神史の軌跡をたどりつつお話をうかがえればと思います。 

 

 雀部  私が大学に入ったのは一九五五年ですが、それはちょうどフルシチョフによるスターリン批判の前年であり、またハンガリー動乱の前年ですね。その頃はマルクス主義全盛の時代で、『資本論』はバイブルのように読まれていました。私も大学に入ってすぐに当時大月書店から出ていた『マルクス・エンゲルス二巻選集』と『レーニン二巻選集』を読み、二年のとき『資本論』全三巻を青木文庫の長谷部文雄訳で読みました。この時期は戦後の学生運動の第二の高揚期だったわけですが、やがて六〇年安保で学生運動は一つの大きな挫折を経験します。

 私自身、スターリン主義との対決ということが大きなテーマとしてありました。マルクス主義とは何であるかを考え、大学三年の時ですが『経哲草稿』を読み、初期マルクスの思想に心酔するんですね。もともと哲学への志向がありましたから、初期マルクスとの関わりでヘーゲルの『精神現象学』や『法の哲学』を分からないなりにも読んだり、ルカーチの『歴史と階級意識』、『若きヘーゲル』、『理性の破壊』を読んだりしていました。やはりその背景には、自分たちが直面する問題にどう立ち向かうか、という問題意識があったんですね。ですが、それはまた私自身の思想的迷路の入口でもありました。

 その当時は、スターリンがだめならトロツキーだという風潮があって、トロツキーが多くは英語版からの重訳で盛んに翻訳されていました。同じようにブハーリンなども訳されていましたね。私も英語版で『わが生涯』、『裏切られた革命』、『一九五年――結果と展望』、『レーニン死後の第三インターナショナル』などトロツキー自身のものや、アイザック・ドイッチャーのトロツキー伝三部作を読んだのですが、失望してしまいます。トロツキーはたしかに才気煥発でシャープだが、根本的にはリアルでない、これではやはりスターリンの一国社会主義路線に対抗できない、と。ちなみに、私は大学一年の終わりの春休みに、フルシチョのスターリン批判の直後のことでしたが、スターリンを批判するからにはスターリンのものは読んでおかなくてはいけないというので、当時出ていた邦訳の『スターリン全集』を電文の類を含めて全部読んでおりました。それで、私は新左翼の方へは行かないわけです。ブハーリンはボリシェヴィキ切っての理論家と言われるわりには、論法がスコラ主義的でまどろっこしい。けれども、レーニンには魅力を感じていました。私の少年時代はロシア文学全盛時代で岩波文庫などにずいぶん翻訳がありました。私も高校時代にコロレンコやガルシンなど今日ではあまり知られていない作家のものをも含めてロシア文学に傾倒しましたが、レーニンにはその一九世紀ロシア文学の伝統が流れ込んでいるのです。それは『レーニン全集』を細かく読むとよく分かります。事実、彼には「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」や「トルストイと労働運動」といったトルストイ論がありますし、『プラウダ』に書いた論説には「その前夜」というツルゲーネフの小説を思わせるタイトルのものがあります。ただ彼はドストエフスキーは嫌いだったようですね。そこで『レーニン全集』を読み直し、レーニンの新経済政策論や晩年の協同組合論の延長上に、スターリンの強制的農業集団化大粛清のラインに取って代わる社会主義建設のオールタナティヴがないか、という問題意識でレーニンと取り組みます。そして一九二〇年代ソ連の社会主義建設論争について研究したわけです。後に東大へ行かれてソ連史の権威となられた溪内謙教授のアドヴァイスもあって、E・H・カーのボリシェヴィク・レヴォリューション三巻、インターレグナム、ソーシャリズム・イン・ワン・カントリー二巻(当時はまだ第二巻まででした)のつごう六巻におよぶ『ソヴェト・ロシア史』を読み、また当時は今のようにいろんな史料が出ていませんでしたから、ソ連共産党中央委員会や党大会の決議決定集、その不完全な議事録、それから一九二年代コミンテルン執行委員会の機関誌『インプレコール(インターナショナル・プレス・コレスポンデンス)』などを読み漁りました。もちろんマルクスの勉強もします。当時、故平田清明教授が名古屋におられて多産な仕事をしておられた。その平田教授から三年間、名古屋大学の若手の研究者や大学院生が集まって、毎週水曜日の晩六時から九時まで『資本論』の講読をしてもらったのです。

 しかし、レーニンと格闘すればするほど、ますます思想的混迷は深くなっていきました。やはりスターリン主義に代わるソ連社会主義建設のオールタナティヴが見つからない。はたから見ると、刀折れ矢尽きた感があったのでしょう。ちょうど大学院のドクターコースに入った時でしたが、私の先生であった故守本順一郎教授が君は一度マルクス主義とはまったく異質な思想学問とぶつかってみてはどうかと言われ、マックス・ウェーバーを本格的に読むことを勧めて下さった。守本教授は山田盛太郎門下で——おかげで守本先生から山田盛太郎の『日本資本主義分析』を叩き込まれました——、日本の講座派マルクス主義の伝統に立つ方だったんですね。ウェーバーとマルクスという問題設定で、みずからはマルクス主義者でありながら、自己自身をも客観化してものごとを見ていくアカデミックな手法を用いておられた。山田盛太郎教授の学問は、戦後、大塚久雄、丸山眞男、内田義彦といった人たちの市民社会論の系譜ともつながります。

 一九六四年には「ウェーバー生誕一〇〇年記念シンポジウム」が日本でも東京大学で開かれましたが、私も一聴衆として大塚久雄、丸山真男、内田義彦、三教授の講演を聞きました。戦後日本のウェーバー受容をリードしたのは、いわば「大塚ウェーバー」つまり市民社会論者としてのウェーバーだったわけですが、大塚さんはその講演で「拭い難いペシミズムの影」がウェーバーにはあると言われたんです。それまではヨーロッパ的な近代化を一つのモデルと考えてきた大塚氏自身が、そこでちらっと疑念を漏らされた。ウェーバー研究において、大塚氏たちの言う「市民社会」とは観念的仮構物であり、それはどこにも存在しない市民社会のイメージだったという問題が出てくるのは、そのあとのことです。

 恩師の守本教授が東洋政治思想史の専門家だったということもあって、私はまずウェーバーの儒教論と取り組みました。そうして『宗教社会学論集』全三巻を七年ほど掛かって読むことになります。そこで私は、ウェーバーの最大の関心事は何だったのかという問題に突き当たったのです。それは、ヨーロッパの危機的状況にあって「近代ヨーロッパの運命いかん」ということだったんですね。そこから彼は、近代ヨーロッパがそれとして成り立つ独特の要因を考察していくことになります。とくにその問題は、ウェーバーの『宗教社会学論集』のなかの中国論(「儒教と道教」)とインド論(「ヒンドゥー教と仏教」)との中間に挿入され両者をつなぐ役割を果たしている論文「中間考察」のテーマに結びついて行きます。実はそこには、単なる中間の媒介項といった枠には収まり切らない、もっと何か二〇世紀的現代における人間的生の諸相に関するウェーバーの精神史的考察とでもいうべき独自の内容が含まれている。私はそう考えて、この「中間考察」と取り組みました。それは、のちの私のウェーバー研究を決定づけるほどの興味深い内容だったんですね。

 

 ——「大塚ウェーバー」は、戦後日本における最大の関心事、つまり近代日本をどう考えるかというテーマと結びついていたわけですね。

 

 雀部 「大塚ウェーバー」においては、近代的な生産力とそれを支えるエートスというウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のアイデアをもとに近代化を考えていました。それは国民経済論であり、近代日本をどう考えるか、日本は何によって立つべきかという問題だったわけですね。

 日本の近代化を考えると、明治政府の伊藤博文たちは商工立国論の考え方をとったわけですが、内村鑑三や河上肇、柳田国男らは、農業と商工業とが並進鼎立する国民経済形成の必要性を説いたわけですね。たとえば内村鑑三は、日本は東洋の「デンマルク」国になるべきだと言いました。柳田国男の出発点は農政論にありましたから、彼は農業を重視した。そのあと民俗学に向かいますが、日本的なものはやはりしっかりと残さなければならないと考えていたわけですね。それは産業でいえば、やはり農業をしっかり維持するということになるわけです。ただ彼は官僚であり、貴族院の事務方のトップに上り詰め、またジュネーウ゛で国際連盟の仕事を何年かするというように、国際的な感覚は十分にある人でしたから、日本を工業化しなければならないということはよく承知していた。だから、商工農のバランスのとれた発展ということを言うわけですね。

 大塚久雄は内村鑑三の弟子に当たる人ですから、そうした考え方の系譜に立つ人でした。第二次大戦後、ふたたび日本は何によって立つべきかという問いがあって、それに対して大塚氏はあの「オランダ型貿易国家」への批判に展開される国民経済論を唱えた。これは小国立国論ですね。その中核を担うのが中産的生産者であり、彼らのエートスに規準が置かれる。その考え方はそれなりの意味を持ったわけですが、やがては一九六四年時点で大塚さんがちらっといわれた、彼の言葉でいえば「拭い難いペシミズムの影」がウェーバーにあったという問題が出てきます。大塚氏は後年その問題に着目して、従来とは少し立論のシフトを変えていかれます。そういう問題が出てこない間はマルクスとウェーバーで行けたのですが、ペシミズムの問題が出てくると、マルクスとウェーバーというパラダイムでは考えられなくなる。彼は無教会派のクリスチャンですが、その後は、本来のキリスト教と氏の考える方向に、より傾斜していかれたような気がします。

  そのペシミズムとは、近代ヨーロッパの人間が直面したまさに現代的ディレンマだったと思います。ウェーバーはそれを直視して、彼の言葉によれば「どこまで耐えられるか試してみよう」とした。それは非常に剛毅な精神だと思いますけれども、弱い精神だとそこで何かに救いを求めてしまいますね。この「どこまで耐えられるか」というのは、私がウェーバーを本格的に読み始めてから、ずっと念頭を去らない非常に大きな問題となりました。

 さきほどもお話ししましたが、私はそれまで自分がやってきたこととひっかけながら、ウェーバー研究をすることにしました。ウェーバーの儒教論について論文を書き、そして、たまたま一九二〇年代ソ連の社会主義建設論争をある程度見てきたので、そのことからウェーバーのロシア革命論とどう取り組めるかを考え、ウェーバーのロシア革命論について『思想』に論文を書くわけです。

 

 ——それが、『レーニンのロシア革命像——マルクス、ウェーバーとの思想的交錯において』(未來社、一九八〇年)に収められた第一章「マックス・ウェーバーのロシア革命論」だったわけですね。

 

  雀部 そうです。その頃はまだマルクスとウェーバーという問題設定で考えていたのですが、マルクスーウェーバーという枠組みが、私の場合にはレーニンとウェーバーになるわけですね。だからウェーバーのロシア革命論の考察がレーニン論にもなって、私の場合にはレーニンの再評価になります。だが、『レーニンのロシア革命像』はロシアを素材にして私が三〇代初めから四〇代初めにかけて書いた論稿を集めたものですから、最初と終りの頃とでは思想的にずれが生じてきています。

  マルクスとレーニンという枠組みでいえば、もちろんマルクスなくしてレーニンはないのですが、たしかに思想的にはマルクスは偉大だけれども、革命家という点ではレーニンの方が数段上だろうと私は思っています。その当時の一般的風潮は、スターリンがだめだからその師のレーニンもだめであって、だからマルクスへ戻るんだというので、平田清明さんなどはその典型だったわけですが、私は違う。むしろレーニンの方が総合点でいえばマルクスよりも偉大だろうと考えていましたし、いまでもそう思っています。というのは、政治においては、実際に体制を引き受けるということがきわめて重要であり、いまの体制を批判する者は、自分ならその体制をどうするのか、古い体制を全面的に転換して新しい体制をどうつくるのかという確固たる見通しと覚悟がないと、体制を批判したことにはならない。それが私の若いときからの変わらぬ信念です。その点ではレーニンはすぐれていると思います。一九一七年に二月革命の後、ロシアでいわゆる二重権力状況が生まれる。首都のペトログラードではペトログラード・ソヴェトが事実上の権力を握っている。そこで、当時ソヴェトの会議で、なぜソヴェトが全権力を握らないのかという問題が持ち上がり、当時のペトログラード・ソヴェト議長でメンシェヴィキのチヘイゼだったと思いますが、彼が、いまこのロシアの八方ふさがりの情況のもとで果たしてロシアの全権力を引き受ける者がいるだろうかと反問する。その時すかさずフロアから、「いる!」というレーニンの声が響きわたる。たしかにレーニンは亡命先のジュネーヴで二月革命の報に接して「遠方からの手紙」を書き、帰国してからは「四月テーゼ」、「さしせまる大破局、これといかにたたかうか」を書いて、のちのソヴェト=ボリシェヴィキ政権の政権構想をすでに用意していたわけですね。ですから、オールタナティヴを出すということがきわめて重要です。それも確かなものを出すというのが。これは学問でも同じですね。

 このように当時の私はレーニンを高く評価していたわけですけれども、ただ、『レーニンのロシア革命像』を刊行する段になって序文を書かなければいけなくなったとき、私は自分のやっていることの不十分さを痛感しました。やはりもっとレーニンを突き放して見なければいけない、そう考え出した。しかし、じゃあ突き放してどう見るかという段になると、その視点がまだ定まっていない。大学を卒業して大学院に入る頃に陥った思想的昏迷は、結局のところ何も解決されていない。少なくとも自分なりの回答を見出していないということが、だんだん分かってくるわけですね。それで、ふたたび思想的彷徨状態に入るわけです。『レーニンのロシア革命像』を出版したのは一九八〇年ですけれども、大体のものはその前に出来上がっている。ですが、その頃からまた思想的彷徨が始まって、結局、ほとんど十年近く、仕事としてほとんど何もできない時期がありました。

 その頃、私はウェーバーの仏教に関する論考を翻訳しました。私はもともと仏教には関心があり、自分のなかの仏教を確かめるという意味もありましたが、それがこの時期のほとんど唯一の仕事です。そのとき、ウェーバーの仏教論に出てくる経典は見ておかねばならないと考えて、国訳大蔵経などを読んでいきました。これは私の一つのやり方なのですが、ウェーバーが扱っているものを他の角度から見るのです。例えばレーニンのロシア革命論とウェーバーのロシア革命論とをぶつけてみる。それから、ウェーバーの仏教論と取り組む場合でも、仏典で自分の読みうるものを読む。マックス・ミュラーの編集した膨大な英訳の『東方聖典』、そのなかの仏教関係の典籍をウェーバーは読んでいるわけですが、それとわれわれのところに伝わっているものとは違う。やはり私は、ウェーバーから仏教を教えてもらうのは小なりといえども極東の人間の沽券に関わる、と考えたわけです。一寸の虫にも五分の魂というところでしょうか。

  私は『宗教社会学論集』を研究しようと思っていたものですから、もともとキリスト教への関心も私にはあり——高校二年の時に当時の文語訳で新約聖書を読んでおります——、キリスト教の勉強もしなければいけないということになった。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではルターとカルヴァンが出てきますが、やはりウェーバーから教えてもらうわけにはいかないと思って、ルターやカルヴァンのものを自分の目で読むよう心がけました。でも、これは大変なことで、そういうことをやっていると、自分の仕事としてはなかなかものが書けないわけです。内村鑑三や矢内原忠雄のもの、それからパスカルやドストエフスキーのもの、カール・ヒルティのものも、このキリスト教の勉強という関連で読みました。私はトルストイは若い頃に翻訳されたものをほとんど読んでいたのですが、ドストエフスキーのものはせいぜい『罪と罰』『悪霊』くらいしか読んでおらず、『カラマーゾフの兄弟』を始めとする彼のほかの小説、『作家の日記』は中年になって初めて読みました。このドストエフスキーの読書体験が、後でお話しするカントの認識論への開眼とともに、私がレーニン、さらにはマルクス主義一般と訣別する思想的に大きなインパクトとなります。

 

 ——『知と意味の位相——ウェーバー思想世界への序論(恒星社厚生閣、一九九三年)には第二章付論「ルター瞥見」が収められています。またトルストイやドストエフスキーへの言及も見られます。本書に収められたカント論もそうですが、ウェーバーの思想世界に分け入られるなかで、ウェーバーとカントという問題が浮上してきたわけですね。

 

  雀部 ええ。なぜ自分がウェーバーに取り組んだかを考えてみて、やはり「中間考察」、それから『職業としての学問』が自分をいちばん引きつけたのであって、それを素材にして何か書けないかと思ったわけです。それが『知と意味の位相』の第一章「脱魔術化と意味喪失の時代としての現代」のもとになった論文「マックス・ウェーバーにおける知の現在」です。これは『職業としての学問』の覚え書きなのですが、ウェーバーをそこに至らしめたものは何なのだろうか、つまりウェーバーの少なくとも西欧近代精神史上の思想史的な回顧をやらなければいけないと考えるようになった。そこで彼の伝記を読み直し、青年時代の手紙を読んでみると、カントのウェーバーに与えた影響が思想的にはなはだ大きいことが分かってきました。直接には新カント派ですけれども、思想的な意味ではカントの影響なんですね。

 そこで私はカントの勉強を始め、『純粋理性批判』と『実践理性批判』、『理性の限界内における宗教』を読みました。そこで私の考え方のベースとなったのが、理性の限界内における宗教というコンセプトでした。カントには、そのほかにもそうした問題に触れた『形而上学講義』『宗教論講義』がありますが、それらも読んで、第二章「カントの形而上学批判」のもととなった論文を名古屋大学の『法政論集』に書くわけです。

 

 ——ウェーバーとニーチェという問題にも取り組まれるのですね。

 

 雀部 一九八五年に文部省の長期在外研修でドイツへ行ったのですが、しかしそこで、やはりどうしても哲学・思想に引かれていくんですね。そこでルターを読み、それからニーチェを読みました。他方ではドイツ憲法史の勉強もするのですが、これは後で役に立つことになります。当時すでに、大きな枠組みでいえば、マルクスとウェーバーという問題設定からウェーバーとニーチェという問題設定へという流れが始まりつつあったんですね。私もその問題に取り組むことになりました。

  日本でも明治時代から、高山樗牛、生田長江、和辻哲郎、竹山道雄をはじめ、ニーチェは広く読まれてきました。私の高校時代にもニーチェに心酔する友人が何人かいましたし、私も新潮文庫の竹山道雄訳の『ツアラトストラかく語りき』などを読んでニーチェを横目で見ていたのですが、より直接のインパクトはドイツで受けたんですね。後でヴィルムヘルム・へニスの『マックス・ウェーバーの問題設定』(恒星社厚生閣、一九九一年)を嘉目克彦さんたちと共訳しましたが、ウェーバーとニーチェに関する議論をドイツでへニス氏とも行いました。彼はニーチェのウェーバーに与えた影響を非常に強調するわけですが、私はそれに対して抵抗があって反論した。もう少し距離を置いて、ニーチェがウェーバーに与えた影響は見ていかねばならないと考えたわけですね。それで『知と意味の位相』の第三章「カントからニーチェへ」と第六章「ウェーバーとニーチェ」を書くわけです。ちなみに、わが国でニーチェを持ち上げる人は、その多くがキリスト教をあまり勉強していませんね。ニーチェのキリスト教批判でキリスト教の問題は片付いたと思っている。マルクス主義者がマルクスやフォイエルバッハの宗教批判で宗教問題が片付いたと思っているのと同じです。私は自分が比較的信念のあるマルクス主義者だった頃から、「宗教は民衆の阿片なり」というマルクスの言葉には納得していませんでした。これはあまりにも安直で浅薄な批判の仕方だと。

 

 ——『知と意味の位相』の第四章「ウェーバーの社会主義論」は一九八九年の一二月、まさにベルリンの壁が崩壊し東欧革命が雪崩を打って始まったそのときに、季刊『窓』第二号に掲載されたものを読みました。

 

 雀部 これは、その前の一九八九年の六月に起きた天安門事件の余韻のもとに書いたものです。ある意味で、それは私のマルクスとの訣別でした。ただ『職業としての学問』についての論文を書いた頃から、私のマルクス相対化は始まっていた。ですから、その論文を書いたとき、これが『レーニンのロシア革命像』を書いたのと同じ人間のものかと言われたりしました。

  私の場合、マルクスの考え方を相対化していくときの認識論的基礎はカントです。物自体と現象との峻別という発想は、私においてヘーゲルとマルクスとを相対化する大きなインパクトを与えました。ただカントの実践哲学には結局そのままついていくことができなかった。やはり、人間の道徳というものには宗教的な基礎が必要です。ニーチェも、道徳が成り立つためには信仰が必要だと言っていますが、ただニーチェの場合は、どのみち、その信仰に基礎を置いた道徳でもって人間を良くすることなどできない、と言うのです。だからニーチェはネガティヴな趣旨でそう言うのですが、別にニーチェにとらわれることはないのであり、ニーチェを離れて言って、私はやはり道徳というものがしっかりするためには、何らかの意味で宗教的な信仰がその根底になければならないと思うのです。おそらくこれは人類の永い経験でしょう。

  もちろんカントにもそうした考えがあるわけだけれども、彼はそれを哲学という枠組みのなかで一生懸命解こうとしている。これでは解けない。やはりはっきりと信仰ということを言わないといけない。ですから、私はカントに物足りなさを感じてルターやカルヴァンを勉強したのです。そうして、カントからルター、カルヴァンとたどることで、ウェーバーの思想的な奥行きを垣間見るわけですね。そういうふうにして、すでにドイツへ行く前にマルクスを相対化していたわけですが、ドイツから帰ってきてそのことが非常にはっきりしてきたのです。

 いまお話ししてきたことからもお分かりのように、私の思想的な混迷は、ある意味で大学時代、六〇年安保のときからずっと続いています。最初は何とかマルクスで行こうと頑張ったし、『レーニンとロシア革命像』を書いた。先ほどレーニンは偉大だと言いましたが、いくらそうでも、その後がよくなければ、やはりだめです。木はその果によってはかられる。カルヴァンのキリスト教はまさにその考えですね。彼は福音主義ですから行為救済論を否定するわけですが、信仰を得た結果の行為を非常に重んじます。

 そのこととの関連でいえば、カルヴィニズムから『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』につながっていくというウェーバーの考え方も出てくるんですね。ただ、私はあの本のなかのルターへの裁断には納得しかねるものがあります。でも、これはまた別の問題です。大塚さんなどは、ご本人がピューリタンの系譜につながるクリスチャンだということもあって、『宗教改革と近代社会』などで、『プロ倫』を援用しながら、ルターよりもカルヴァンのほうを評価されていたようですが、私はむしろルターのほうが宗教的には深く偉大なのではないかと考えています。しかし、そういうことで言えば、トマス・アクィナスやアウグスチヌスなどのことももっとよく知らなければなりませんし、そういう意味では、ウェーバーの宗教社会学の検討は、キリスト教にかかわる部分だけに限っても、大変難しい。ましていわんや、儒教論や仏教論、それから日本人としては武士道論――ウェーバーには日本の武士道に敬意を表しているところも見られますが――の領域にかかわることにおいてをや、です。早い話が、日本の天台宗や真言宗には台密、東密といって密教的要素があり、真言宗にはとりわけそれが強い。この密教的要素はウェーバー的には「呪術の園」ということになるのだけれども、いくらウェーバーには世界宗教の「経済倫理」という問題の限定があるといっても、われわれ日本人にとって、たとえば真言宗が「呪術の園」ということでばっさりやられて、それで事が済むでしょうか。これは弘法大師を信奉するとかしないとか、好きとか嫌いとかということとは関係がありません。ですから、宗教社会学の世界におけるウェーバーとの対話=対決は並大抵のことではない。というのが私のいまの正直な気持ちです。歴史的現実の実態分析の問題としていえば、ひょっとすると、ウェーバーの仕事の一番いいもの、彼の本当に強い領域は、ある意味で兵站線の延び切った感のなくはない宗教社会学論集よりも、むしろ政治論、彼の生きたドイツの現実政治と切り結ぶなかから生まれた時事的な政治論説ではないか、と私はひそかに考えています。これは私の政治学者としての我田引水の嫌いがなきにしもあらずでしょうけれども、ウェーバー自身晩年の手紙のなかで「政治は私の昔からのひそかな恋人です」と書いておりますし、そうした彼の主観的事実からすると、彼の政治論、広くいって政治思想は、ウェーバー研究において、少なくとも、もっと重視されなければならないと思います。彼の政治論を腑に落ちる形で読めなければ、本当はウェーバーが分らないのではないか。いろいろ手探りしながらウェーバーを見てゆくなかで、だんだん私はそう思うようになりました。それに私自身政治学徒ですから、いよいよウェーバーの政治論、政治思想に研究の照準を合わせなくてはならないと考えるようになったのです。ところが、このウェーバーの政治論を腑に落ちるような形で読むというのが、これがまた大変難しい。

 

 ——『ウェーバーとワイマール』に書いておられるように、ウェーバーの政治論・政治思想の考察は、雀部先生御自身の戦後民主派的発想の批判的検討と密接に関わっていたといえるのですね。

 

 雀部 そうですね。ウェーバーの政治論、政治思想と正面から切り結ぶのがなぜ難しいのかといえば、それは、簡単に言って、彼の立論の仕方がわれわれの戦後民主派的発想と合わないからです。一九八七年にドイツで出たEvangelisches    Staatslexikon第三版には、「民主政治」は現代人にとって「誰もが納得する政治の公準」「良き国家の総称」になっているという記述がありますが、それはまさにわれわれ戦後民主主義の教育を受けた者にとってそうでして、われわれは民主主義を、いわば自然法によって人間理性に与えられた、何を措いても実現されるべき政治の至上価値と考えているはずです。そしてその民主制のなかでわれわれが最も高い価値を置くのが議会制です。ですから民主主義と議会主義とは戦後民主派のわれわれにとってまさに「誰もが納得する政治の公準」であり、それらが文句なく実現されているかどうかが、われわれが政治の良し悪しを判断する際の基準となっているわけです。ところがウェーバーは民主主義や議会主義は自分にとっては二の次の問題であるなどということを平気で言う。ではウェーバーが政治において追求する第一の価値は何かと問えば、それは「国民のLebensinteressen(生活利益、死活の利害)」であり、「ドイツ国家の権力利害」だと、彼は答える。つまり彼において政治の公準は国益第一なんですね。これは戦後民主主義の教育を受けたわれわれの神経を逆なでします。もちろん彼は当時のドイツの現実に即してドイツ政治の民主化と議会化を可能な限り追求しようとした。その点では人後に落ちませんが、しかしそのコンセプトは「国民的」民主制であり、「指導者」民主制です。このコンセプトは戦後民主派のわれわれにとっては何となく胡散臭い気がします。少なくともしっくりきませんね。大体「国民的」というのは戦後あまり好かれませんし−−「国家的」などとはもってのほかです――、政治におけるリーダーシップを強調するよりも下からの積み上げを重視するほうが、何となく「民主主義的」であるように考えられています。それに、何よりも民主主義や議会主義は、ウェーバーにおいて目的価値(「価値合理的」に信奉されるべき価値)ではなく、突き放して言えば、(国益を実現するための)たんなる手段的価値(「目的合理的価値」)でしかない。こういうわけで、ウェーバーの政治論は戦後民主派的ないし市民派的発想の持ち主にとっては相性が悪いのです。そのことを象徴的に示すのがウェーバー晩年の二つの講演に対するわれわれの受け止め方です。おそらく『職業としての学問』は読めても、『職業としての政治』はなかなか読めない、というのがわれわれ多くの者のいだく実感ではないでしょうか。私の場合もそうでした。私がまだマルクス主義的な信条を持っていた頃はあの講演をすらっと呑み込めないのは当然のことですが、マルクスと訣別した後でも、あの講演はどうしてもひっかかるところばかりでした。それはかつての私のマルクス主義的信条の基層に戦後民主主義の価値観がしっかり根付いており、それがウェーバーの政治論をすんなり受け入れることを拒んでいたからです。

 こうしてウェーバーの政治論説や政治思想は戦後民主派のわれわれにとっては抵抗が大きい。もちろん抵抗が大きくたってかまわない。ウェーバーが間違っていて、われわれのほうが正しいのかも知れませんから。別にウェーバーを金科玉条とすることはない。だが、学問的にはそう簡単に開き直れない。そのことを如実に示すのがヴォルフガンク・J・モムゼンの『マックス・ウェーバーとドイツの政治 1890-1920』(初版1959年、改訂増補第二版1974年、邦訳1993・1994年)です。これは今日まで人がウェーバーの政治思想を論ずるさいに基準とされてきた大著なのですが、それはまた徹底したウェーバー批判の書でもあり、その結論は、簡単にいうと、ウェーバーは権力主義者であり、(自由)帝国主義者であって、特にその晩年の人民投票的指導者民主主義論は意図せずしてヒトラー独裁に道を開く危険な要素を憲政論的に秘めている、というものです。どうしてそういうことになるのかというと、それは、モムゼンがやはりドイツの戦後民主派第一世代としてわれわれと同じようなアメリカ仕込みの自然法的民主主義の信条を持っていて、その目でウェーバーを見ている、いや、裁断しているからです。戦後民主派的信条に正直に従って、というよりも、その自己の信条をも対象化して眺めるという操作を同時並行的に行わずに、ウェーバーの書いたものを読むと、たしかにウェーバーはモムゼンが言うようにも見えてくる。

 だが、ウェーバーが意図せざるヒトラーの先駆者だ、少なくともその要素を何がしか秘めているというのは、あんまりです。それは、われわれが『職業としての学問』や『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などを読んで抱くウェーバーのイメージとはやはりあまりにも違います。誰でもそう考えるのですね。

だから、われわれはウェーバーの政治論を前にして大きなディレンマに陥るわけです。戦後民主派的発想でウェーバーを読むとモムゼンのように非常にネガティヴな結論になりかねない。しかしそれで納得できるかというと、そうはいかない。ですから、われわれはウェーバーの前で困惑し、モムゼンの前で当惑するわけですね。

このディレンマをどう解くか。私の結論は、われわれは、われわれのうちなる戦後民主派的信条を金科玉条とすることなく——もちろんウェーバーを金科玉条としてもいけません——、それを徹底的に対象化しながらウェーバーと対話すべきである、というものです。ということで、私は若いときから自分を培ってきたマルクス主義を対象化すると同時に、その基層にあった自分の民主主義的な信条をもう一度見直す方向に思い切って踏み込むことにしました。しかし、自分の戦後民主派的発想を対象化するといっても、徒手空拳で、つまり頭の中でウーンと考えこむだけで、それができるわけではない。やはり対象に即してそれをやらなければならない。その場合、対象といっても、二重です。まず、われわれは日本人ですから、日本の現状を、そして日本の来し方行く末をどう考えるか、という問題がある。実はこの問題が、私が自分の戦後民主派的発想を見直さなければならないと思うにいたった最大の、そして最も切実な、きっかけです。冷戦終焉後の−−いまでは去年九月のアメリカで起こった「世界同時多発テロ」後の荒々しい世界があります――、そしてバブルがはじけて日本が底なしの不況に落ち込んだかに見える今日ほど、内外ともに政治の役割が重要になった時はない。だが、日本の政治状況はますます混迷を深め、ほとんど液状化的崩壊現象を呈している。こんな惨憺たる政治状況をもたらした戦後民主主義とは一体何だったのか。それはそんなに礼賛できるものなのか。すくなくとも、それは疑うべからざる既得の価値なのか。こうして私は戦後民主主義を括弧に入れ、クェスチョンマークをつけて再検討する作業を、少なくとも明治以降の日本の政治史を成心なく——これが大事です——見てゆく作業とともに始めたわけです。しかし、私は日本の専門家ではありませんから、これは自分の本番の仕事に問題を送り込む作業としては重要であっても、それ自体としては専門的になしうることではありません。

そこで第二の対象が浮かび上がります。これは私が専門的に扱いうる、すくなくとも努力すれば扱いうる、対象です。つまり、ウェーバーが格闘したドイツの現実の政治過程、ドイツ近現代政治史を見直す作業です。これはそもそもウェーバーの政治論を見てゆくためには必須の作業であって、モムゼンもまさに「ウェーバーとドイツの政治」ということで、両者を突き合わせて検討している。しかも彼はウェーバーの生きたドイツ史に総決算を与えたワイマール共和国の崩壊、ヒトラーの権力掌握というクリティカルな時点から振り返って、ウェーバーの政治論の意味――モムゼンの主観に即していえば、その問題性――を再吟味している。これは彼がもともとドイツ近現代史の専門家であったればこそできたことであり、彼のウェーバー論の強みもまたそこにある。内外の多くのウェーバー研究者がモムゼンのウェーバー批判、とくにヒトラーの意図せざる先駆者というウェーバー像に内心ではしっくり行かないものを感じながら、それを正面からまともに踏み込んで批判できないのも、専門家モムゼンの向こうを張ってワイマール共和国崩壊までのドイツ政治史を自分の目で確かめ、それと突き合わせる形でウェーバーの政治論を検討する余裕も力もないからです。だから、モムゼンが見ているのと同じワイマールの結末までのドイツ政治史をぜひとも自分の目で確かめなければならない。そして、それとウェーバーの政治論説とを突き合わせて、彼の所説の意味と射程を確定しなければならない。だが、モムゼンが見ているのと同じ目でドイツ政治史を見ても仕方がない。モムゼンほど大胆な結論は出さないまでも、ウェーバーの政治論について結局は大同小異の見方しかできないだろう。すくなくともモムゼンのウェーバーにかけた嫌疑の霧はすっきり晴れはしないだろう。だからモムゼンとは違った目で、すくなくともモムゼンの立脚している視点の妥当性を括弧の中に入れて、ワイマールの結末までのドイツ政治史を見なければならない。

それではモムゼンの立脚する視点とは何か。それはいうまでもなくわれわれと同じ戦後民主派の視点であり、アメリカ仕込みの自然法的民主主義の視点です。モムゼンは、ドイツ人がヒトラーの権力掌握とナチズムの勝利とを許したのは、ドイツ人の間に「民主主義の道徳的基礎」、つまり自然法的民主主義――民主主義を人間理性に対して自然法的に与えられた政治の至上価値として信奉すること——がしっかり定着していなかったからだと言います。しかし、自然法的民主主義が多少とも国民的規模で定着したのは世界広しといえどもアメリカ合衆国だけであり、したがって、自分たちの間で自然法的民主主義が十分定着していなかったからドイツ人たちはヒトラーの台頭を許したというのは、ドイツ人はアメリカ人でなかったからヒトラーの権力奪取を許したというに等しい。こんな無い物ねだりの運命論的な道徳主義的裁断でもってドイツ史を切り飛ばし、返す刀でウェーバーを切り飛ばしてもらっては困ります。ドイツ人はドイツに内在する諸条件に即してヒトラーを阻止できたのでなければならない。だが、モムゼンの立脚する戦後民主派的発想で行けば、結局そういうミもフタもない話になります。

ということで、私は、モムゼンとは違った目で、ワイマール共和国崩壊までの近現代ドイツの政治史と憲政史を眺め、私が非専門家としてやっている日本近現代史の見直し作業とも頭の中では突き合わせながら、戦後民主派的発想の批判的再吟味に取り掛かったのです。もちろん、そのなかでウェーバーの政治論の読み直しも同時に行います。

 

 ——モムゼン批判と『ウェーバーとワイマール』でなされたワイマール共和国崩壊の政治史的、憲政史的過程も同時並行的に考察していかれたわけですね。

 

 雀部 ええ。その関連で、オットー・ヒンツェやフリッツ・ハルトウンク、ゲルハルト・リッターらの古典的なドイツ政治史や憲政史の著作、ワイマール期のシュミットの憲法論や時事論説、マイネッケやアルフレート・ウェーバーのとくにワイマール期の時事論説、現代ドイツの史家のものとしてはハーゲン・シュルツェやハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーのワイマール共和国史などをいろいろ読みましたが、しかし一番勉強になったのは、現代ドイツ最大の憲政史家エルンスト・ルードルフ・フーバーの索引巻をも含めて全八巻におよぶ膨大な『一七八九年以降のドイツ憲政史』です。この大著については、私の一九八五年のドイツ在外研修のとき、ハイデルベルク大学法学部のドイツ憲法史のラインハルト・ムスクヌーク教授のゼミでビスマルク憲法成立過程のところを読み、手ほどきを受けていたのですが、本格的に読むことにしたのです。とくにそのワイマール期を扱った第六・七巻――これだけで細かい活字で二〇〇〇頁以上に及びます――は、彼とは正反対の資質と志向の持ち主であるドイツ現代史家の故デートレフ・ポイカートによっても、その『ワイマール共和国』の参考文献欄で、ワイマール共和国憲政史の最も包括的で古典的な叙述を与えたものと評価されているものであり、これを見逃す手はありません。このフーバーのワイマール共和国崩壊の理解の仕方は、日本で定説となっているブラッハー流のワイマール共和国崩壊論とはある意味で正反対になっているんですね。モムゼンはウェーバー晩年の大統領制論のなかにヒトラー独裁を意図せずして用意する憲政論的要素を読み取りますが、そのとき彼の依拠したワイマール共和国崩壊の理解の仕方は、ブラッハー経由のものであり、このブラッハーの史観は、モムゼンが依拠するにふさわしく、われわれの戦後民主派的歴史観と共通項でくくられるものです。

 さて、このフーバーやハーゲン・シュルツェ、ハインリヒ・アウグスト・ヴィンクラーらのワイマール共和国史を読み、それと突きつき合わせる形でウェーバーの政治論、政治思想を検討した結果、私の得た結論は、モムゼンのものとはまさに正反対のものでした。ウェーバーの大統領制論とその指導者民主制論とは、モムゼンの言うように、ヒトラーの全体主義的=「主権的」独裁に意図せずしてつながる危険な要素を含むものであるどころか、もしヒトラーのような全体主義的=主権的独裁の勢力が登場してきた時には、「委任的」独裁によってそれを阻止する手立てを憲政論的に用意するものであった、ブラッハーやモムゼン、それにわれわれのように、自然法的民主主義と観念的で硬直した議会至上主義を内容とする戦後民主派的発想にとらわれておれば、その点が——きわめて重要な右の二つの独裁の区別とともに——、正しく見えてはこないのだ、と。実際、ワイマール共和国最後のライヒ首相シュライヒャーは、まさにその「委任的」独裁の手法でヒトラーの権力奪取、「主権的」=全体主義的独裁の成立を阻止しようとしますが、共和国擁護派のドイツ社会民主党および中央党の反対が重要な一因となって挫折します。この点、ヴィンクラーは「民主派――つまり社会民主党と中央党——はあたかも共和国を脅威にさらす者がシュライヒャーであってヒトラーではないかのような行動をとった」と述べています。それでは、彼らはなぜヒトラーの「主権的」独裁を食い止めようとするシュライヒャーの「委任的」独裁の行為に反対したかというと、それは彼らが政治的に未熟であって、われわれの戦後民主派的発想と内容的には同一の観念的な自然法的民主主義と議会至上主義の観点にとらわれていたからです。とりわけドイツ中央党のごときは、ワイマール末期の一九三二年にライヒ議会で思惑の相反する右左の両極政党のナチスと共産党とが合わせて過半数を制し、ライヒ議会が完全な機能麻痺の状態に陥り、ワイマール憲法状況の非常事態が出現したとき、あろうことかナチスとの連立による議会主義的政府の形成にこだわり——しかも中央党はナチスが議会第一党だからというのでヒトラー首班を容認します——、ワイマール憲法第四八条で認められた「委任的」独裁の措置によって——ですから「委任的」独裁は合憲的独裁です——非常事態打開をめざすシュライヒャーの政策に反対するわけで、これを観念的な議会至上主義と言わずして何と言うか、ということです。われわれ戦後民主派でも、その発想にとらわれているかぎり、こうした場合、中央党と大同小異の態度をとるでしょう(しかも戦後の日本国憲法には、およそ非常事態に対処する「委任的」=合憲的独裁の規定はありません)。つまり、戦後民主派的発想は、ワイマール期に一度重大な誤りを犯しているわけです。ひるがえってウェーバーの政治思想の根幹を改めて考えてみますと、彼は「ドイツ国民のLebensinteressenは民主主義や議会主義よりも重い」と言います。彼は他の箇所で「ドイツ国家の権力利害」を云々していますから、国民的利益と国家的利益とをあわせて言う「国益」が彼の追求する政治の第一の価値です。では日本語で「国益」というのはヨーロッパの伝統的な政治概念で言うと何に当たるか。それはレースプーブリカということにほかなりません。ところで、このレースプーブリカ、Polity(政治体)の共通善、「公共善」の追求とその実現こそ、アリストテレス以来のヨーロッパ政治思想の伝統のなかで政治において真っ先に追求されて然るべきものとされたものです。ですから、ウェーバーの政治についての基本的コンセプトは、まさにアリストテレス以来のヨーロッパ政治思想の正系に就くものと言われねばなりません。そのレースプーブリカの概念を根本にすえたうえで、彼は、民主制と議会制とは現代政治の必須の条件であるから、国民的民主制と指導者民主制を主張したのです。その意味では、彼は、われわれに対して、戦後民主派的な観念的政治論にとってかわる、政治の原理論的観点を提供してくれている、と言えるのではないでしょうか。これが、ウェーバーの政治論を腑に落ちる形で読もうと格闘した結果、私の得た結論です。その詳細については、『ウェーバーと政治の世界』および特に『ウェーバーとワイマール』を読んでいただけると幸いです。

 

  ——先ほど、ウェーバーを研究する上で一貫して念頭を去らなかった「どこまで耐えられるか試してみよう」ということが大きな問題としてあったというお話がありました。『知と意味の位相』の冒頭には、ウェーバー自身の結論的命題としてこう記されています。「現代という時代は、『世界の魔術からの解放』が徹底的におしすすめられた時代であり、神々の闘争の時代であり、神なく預言者なき時代である。この時代を知的に生きぬくためのモットーはただ一つ、「汝をつかさどるデーモンを見いだして、日々の仕事につけ」。」

 私にはこれらの言葉が、現代という時代にあっても、知的に生きぬく一つの方途を示しているように思えます。

 

 雀部 『知と意味の位相』と『ウェーバーと政治の世界』『ウェーバーとワイマール』に一貫してあった私の問題意識としてマルクス主義との訣別と自分の戦後民主派的発想の相対化とがありますが、さらにその両方に通底するものに救済論の問題があるのです。私も学問に「意味」を求めてずっとやってきた。今でもある意味では「意味」を求めているわけですが、ここで「意味」というのは「生と世界の究極の意味」、したがって救済の問題です。ウェーバーはそうした「意味」は学問によっては追究できないものであり、また政治に救済を求めてはいけないと言います。

まず前者について。彼は一九〇四年に書いた「社会科学および社会政策の認識の客観性」という論文で、「われわれはこの世界をどれほど隈なく究明したとしても、それに照らしてその出来事の意味を読み解くことができない」、「およそ世界観というものは進歩を遂げる経験的知識の所産では決してありえない」と述べています。それは、簡単にいえば、学問や科学によって「意味問題」は解決がつかない、「意味」は、学問とは違うディグニティをもった精神の働きによって、各人が各様に見出し、作り出していかなければならない、というものにほかなりません。

 これはまことにその通りで、「意味」を科学的に証明することはできません。誰もが納得する客観的な「意味」はないのです。だからまた人間には「自由」の領域がある。カントではありませんが、客観的に合理的なもの、今日風に言えば科学で証明されるものは、zwingend、「強制的」であって、それは理性的存在者なら否応なく認めなければならないものですから、そこに「自由」の余地はありません。だからカントは「信仰」――これは学問的に証明されるものではないからーーを「自由」の事柄としたのです。そしてカントは「信仰にその所を得させるために理性に限界を設けた」。この伝でいえば、ウェーバーは「意味問題にその所を得させるために科学に限界を設けた」と言えるでしょう。

 こうして「意味問題」は各人各様に解かなくてはならないのですが、しかし、この「各人各様」をあまり極端化させて考えては困るのではないかと、私は最近考えております。ウェーバーといえば人はすぐ「神々の闘争」を云々しますが、いまの情況は、相も変わらずそんなことを得々として担ぎまわっている場合じゃないのではないでしょうか。その「神々」も「ディレンマ」に陥っているのです。大抵のウェーバー研究者は見逃していますが、ウェーバーの「中間考察」には、「神々の闘争」と同時に「神々のディレンマ」の問題も鋭く看取されています。この「神々の闘争」がにっちもさっちも行かなくなり、「神々」も結局抜き差しならぬ「ディレンマ」に陥っているのだとすれば、「意味問題」についても、お互いの、生きた人生経験を通して——だから科学的証明の問題としてではなく——、われわれの間にはもう少し広い共通項があってもいいのではないか、いや、多分ないといけないのではないか。そういう意味で、私は今日伝統的な宗教を再活性化させることがだんだん必要になってきているのではないかと思っております。シュルフターもそう考えているのですが、彼はウェーバーからはその観点が出てこないと言う。これが彼のウェーバーへの批判点の一つです。しかし、私はウェーバーにはそうした考え方への通路があると思います。この点がシュルフターと私との違いですが、ウェーバーを離れていっても、やはりそういう問題がわれわれにはある。その問題については、『ウェーバーとワイマール』巻末の付論「ウェーバー 現代の精神史的省察――一つのスケッチ」を参照願えると、幸いです。

 つぎに、政治に救済を求めてはいけない、について。これはウェーバーが『職業としての政治』でもどこでも常々強調するところで、これまたまことにその通りなのですが、しかし、この問題についても、すこしコメントしなければならないことがあります。『職業としての政治』はよくマキャヴェリの『君主論』と比較されます。そこには共通項があると見る人が多いのだけれども、たしかに政治を非常に突き放して冷徹に見る点、政治にひそむ悪魔性を自覚している点で、二人は共通しています。しかし、その自覚の仕方というか、自覚してその先は、という段になると、両者はやはり違う。マキャヴェリは、政治に携わることは悪魔と取引することである、だから政治は賢明かつ大胆にその流儀でやる、そこに何の躊躇も覚えないし、また覚えてはならない、覚える奴はProphet unarmed武器なき預言者の憂き目を味あう、ということになりますが、ウェーバーの場合、政治の悪魔性を自覚するというのは、「気をつけろ、悪魔は劫を経ている!」ということであり、だからこちらも悪魔以上に劫を経なけりゃいけない、ほかならぬ悪魔的なものと対抗するために、ということであって、悪魔性の論理にまったく身を任せるというのではありません。もちろん悪魔の手口をよく知って、場合によっては、というよりも全く多くの場合、こちらもその手口に従わざるを得ない——だから罪を犯さざるを得ない。政治においては、どれほど優れた政治家でも、貸借対照表をつくると、功罪半ばするでしょう——のだが、しかし究極的には、悪魔に対抗することがやはり目指されています。この点は、『職業としての政治』の終わりのほうの、責任倫理と信条倫理との相克と、しかし、ルターの「我ここに立つ」を引っ張ってきて、ぎりぎりのところでの両者の相補を論ずる、その仕方を見ればよく分かります。

この問題は、少し角度を変え、たしかに人は政治によって魂の救済を求めてはならないのだけれども、しかし、それでは、政治においておよそ「聖なるもの」が存在しなくてよいか、という形で見てゆくと、考えやすいでしょう。

 政治は苛酷なものであり、われわれがしょっちゅう見聞きしているように、しばしばどうしようもなく汚いものです。しかし政治がどれほど泥にまみれたものであっても、その政治のどこかにやはり聖なるものがないと、具合が悪い。なぜかといえば、政治はいざとなれば人から命を要求するからです。これは戦後のわれわれは忘れていますが、日本をも含めて人類何十万年、いや何百万年の経験ですし、今日でも、さしあたって日本を除く全世界の経験です。それは極めて重大なことであって、人の命を敢えて要求しなければならないことのある政治は、究極的には汚れていてはだめなんです。やはりどこかに聖なるものがなければならない。ウェーバーの政治論のなかではそのことが意識的に出されてはいなのですが、彼の観点においても潜在的にはあるのではないでしょうか。

 ただ、ウェーバーの時代とわれわれの時代とが違うのは、その間にナチズムがあり、アウシュヴィッツがあり、そして現在までにいたる凄まじいまでの人間精神の荒廃状況があるということです。そうすると、ウェーバーがそれほどポジティヴに言わなかったことでも、われわれが今日的観点からそれをぐいと取り出すとう操作が必要になってきます。

宗教ということで言えば、やはりわれわれは宗教をおろそかにしてはいけないんですね。ただし私が言うのは、もちろん何千年という風雪に耐えた宗教です。かつて数限りない人間的な誤りを犯し、しかもそこから立ち直ってきた、そして自己の誤りをよくわきまえている宗教のことです。もちろんその宗教というのは複数で、ウェーバー的にいえば救済諸宗教、世界的諸宗教のことですし、それから、どんな宗教であれ、偏狭なファンダメンタリズムは困ります。

 

  ——ヒトラーの政権獲得とアウシュヴィッツ、またロシア革命後のソ連が巨大な「収容所群島」を生んでしまったという、そうした二〇世紀最大の問題を考えても、私たちは政治に救済を求めてはいけないということなのですね。

 

 雀部 そのとおりです。マルクス主義は救済論ですね。疎外論についても、疎外というからには、疎外の克服ということを言わなければならない。それは人間の魂の救済であって、宗教や何か他の人間の精神の働きによってなら、なし得るかもしれないけれども、政治や学問ではできない。われわれはその見切りをつける必要があります。民主主義も、日本ではある意味でソフトな代替宗教になっています。戦後の日本では戦前の価値観が音を立てて崩壊し、拠るべきものがなかった。だから、日本国憲法と平和と民主主義が私たちのソフトな宗教のようなものになった。それは一つの救済論です。しかし、それも突き放して見なければいけない。

 それと同時に、しかしながら、にもかかわらず、政治においてはやはり聖なるものを残しておかなければならない。さもないと、われわれはニヒリズムの極致に行き着いてしまうでしょう。

(了)